2010年11月1日月曜日

音楽のおもしろいお話

つい最近読んだ「贋作・盗作 音楽夜話」玉木宏樹著(北辰堂出版)には、音楽に関するおもしろいお話が満載。

◆山田耕筰の「赤とんぼ」が、シューマンの「ピアノとオーケストラのための協奏的アレグロ、作品134」にそっくりなことを、作家の吉行淳之介が指摘。その後、作家の石原慎太郎が随筆にそのことを書くと、山田耕筰が強く抗議したとのこと。

筆者によれば、日本語のイントネーションに独特のこだわりを持つ山田耕筰の曲の中で、「赤とんぼ」だけが例外で、「あかとんぼ」の「あ」と「か」まで長六度も下に跳躍し、奇妙なイントネーションになっていることが気になっていたと書いています。

「ドイツへ行って、日本の代表曲だと言ったら反感を受けるかも知れません」とまで書いています。

◆そのドイツに関連して、「音楽の父」と言われる、バッハ。「音楽の父」と学校で教えたりしているのは日本ぐらいのものだそうです。

バッハは生存中、「古くさい変人扱い」され、代表作の「マタイ受難曲」も、死後80年目にメンデルスゾーンが復活上演するまで曲の存在を知るものがなかったとのこと。そんなバッハがハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンに影響を与えるはずがないと、筆者は言い切ります。

その有名な「マタイ受難曲」のクライマックス「血潮したたる主のみかしら」がハンス・レオ・ハスラーの「わが心は千々に乱れ」(失恋ソング)の全くのパクリとのこと。

◆最終章では、有名な小林亜星「どこまでも行こう」と服部克久「記念樹」の裁判のこと。2002年10月4日、東京高裁は亜星さんに勝訴を言い渡しました。

判決の中で(ここからはwww.remus.dti.ne.jp/~astro/hanketsu より)


【類似性についてのまとめ
「記念樹」は、その一部に「どこまでも行こう」にはない新たな創作的な表現を含むものではあるが、旋律の相当部分は実質的に同一と言い得るものである上、旋律全体の組み立てに係る構成においても酷似しており、旋律の相違部分や和声その他の諸要素を総合的に検討しても、「どこまでも行こう」の表現上の本質的な特徴の同一性を維持しているものであって、「記念樹」に接する者が「どこまでも行こう」の表現上の本質的な特徴を直接感得することができるものというべきである。】

著作権や編曲権についても考えさせられる本。ぜひ、ご一読あれ。

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