2011年2月18日金曜日

オーケ通り・デルーカの事件簿Ⅲ

1948年のイタリア、ボローニャを舞台とした、カルロ・ルカレッリの「オーケ通り(デルーカの事件簿Ⅲ)」(柏艪舎)を読みました。

ファシズムが荒れ狂ったイタリアで1946年、共和制か君主制かを選択する国民投票が実施され、その結果、共和国イタリアが誕生しました。同時に実施された議会議員選挙でキリスト教民主党が最大議席を得、連立内閣の一員となったイタリア共産党は一年を待たずに連立を離脱。


物語の背景となった1948年には総選挙が行われ、両者の激しいたたかいやネオ・ファシズムの台頭もあり、そういう政治情勢のもとで、主人公のデルーカの「捜査」がますます困難を極めていきます。


前2作では、最後にデルーカが逃亡せざるを得なくなったりしたのと同様に、事件を「解決」に導きながら、結末はデルーカ自身が裁判にかけられることになり…?。

3作とも、イタリア人だからこそ理解できる?(日本人には理解しづらい)政治的風土や「イタリア人気質」により、私の思考が混乱させられた作品でした。

特に3作目は「娼館」や「娼婦」が頻繁に登場し、デルーカ自身が娼婦と関係を持つ、それもごく自然に…。前作にもそういう関係が描かれています。これを「イタリア人」と一括りにしていいものなのか、作者の「個人的趣味」とすべきなのか…。物語の構成にまったく必要がないと思われる場面の登場に面食らうのは、私がマジメスギルのでしょうか?
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