2011年5月27日金曜日

太陽を曳く馬

高村 薫の「太陽を曳く馬」上・下(新潮社)を読み終えました。

(上)はすでに図書館に返却して、写真はナシ。

私にはこの本を一気に読むことができませんでした。そのため、(上)だけを返却し(下)は「延長」して借り、ヤットコサ読み終えることができました。気分転換に途中で他の本に手を出さざるを得ませんでした。

この小説をスラスラと読むことができる人がいるのか?いたら会って話してみたい!と思うほど、最初から最後まで延々と仏教論や現代美術論が展開されます。その道に通じている人でなければ理解できないであろう専門用語のオンパレード。

物語は二つの事件が交錯しながら進んでいきます。発達障害を持つ若者が同居女性と近所の全く関係のない男性を玄翁で殺してしまう事件と局在関連性てんかんという持病を持つ青年が道路に飛び出して死亡する事件。

どちらも真実が解明されないまま物語が終わります。

ある箇所を少しだけ紹介しますと
…しかし、そうして言葉を離れ、一切の名前やかたちを離れ、あらゆる欲望と執着を離れた先に残る無為のダルマーアビダルマの分類では、無為のダルマのなかでも、もはや一切の縁起が停止して有為が不成立となる非択滅のダルマでございますが、一般に涅槃寂静と呼ばれるこれが、ほんとうに真如だという証拠はあるだろうか。いわゆる〈対象a〉の気味悪い虚空ではないという証拠はあるだろうか…

この文はまだ読みやすい方。オウム真理教関連の論争では、宗教用語がこれでもかと繰り出され、理解することなく字面を追うだけの「私」が存在するのみ。

現代美術の表現にしてもしかり。作者が対談でこう語っています。
現代アートは、二〇世紀のどこかで行き詰まって、その結果ウォーホルみたいないわゆるポップアートへ行ってしまった。そこを、画家になったつもりで、その行き詰まりに至った理由を考えようと思ったんです。例えば、ミニマリズムやあるいは抽象表現主義と言われていた人たちが、実は究極のところまで行ってしまったとしたら、次世代の人たちはもうやることがなかったのではないか。その究極の一人がマーク・ロスコです。色面だけしか描かなくなった。

本の表紙にこのロスコの絵が使われているのもそのためです。

「読書」の嫌な思い出がよみがえりました。中学生のとき夏休みの「課題図書」だったパール・バックの「大地」を読みかけ、当時の私には苦痛しか感じず途中で放棄してしまいました。それ以来(それ以前も)読書嫌いな中学生となってしまったのです。高校時代までそれが続きました。大学に入ってからです、読書をするようになったのは(そのほとんどは小説ではありません。小説嫌いを脱したのはもっと後になってからです)。

そんなことを思い出してしまったほど難解な本でした。内緒ですが、高村薫を私にすすめたのはチカコ。ほかの著作の中にはいい本もあるそうですが、もう高村薫のものはしばらく読みません。

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