2011年2月22日火曜日

思い出の作家たち

「1953年京都大学大学院に留学。京都市東山区今熊野の下宿にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二とも生涯の友となった。1955年からコロンビア大学助教授、のちに教授を経て、同大学名誉教授となった」(フリー百科事典「ウィキペディア」より)ドナルド・キーンの「思い出の作家たち 谷崎・川端・三島・安部・司馬」(新潮社)を読みました。

谷崎潤一郎とのエピソードで印象に残った部分は、「彼はそもそも男性一般にまったく興味を持っていな」く、「その表情が本当に華やぐのは、そこに女性が姿を見せる時だった」と書いていること。また、「私が『細雪』に書かれた出来事について詳しく訊いた時も、彼は何らの躊躇もなく、ほとんどすべて実際に起こったままであると断言した」こと。

マゾヒズム、エロティシズムという彼の作風そのままに生きた谷崎潤一郎。彼の小説は「いかなる哲学も主張せず、倫理的でも政治的でもないが、文体の大家 の手で豪華なほど精緻に作られている」と、キーンは断じています。


ノーベル文学賞を受賞した川端康成。妻のチカコにずいぶん昔から、受賞するなら、思想は別として三島由紀夫の方がふさわしかったのに…、と何度聞かされたことか。キーンはノーベル文学賞に関してのエピソードも書いてくれています。しかし、彼は日本人初のノーベル文学賞受賞者が川端となったことを「賢明なもの」としていますが…。

川端は「自殺」、三島は「自決」。その三島がキーンに送った「別れの手紙」に次のようなことが書いてあったそうです。「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました」で始まり、文士としてではなく、武士として死にたいと思っていた、と書かれていたとのこと。

安部公房と初めてニューヨークで会ったとき、若い日本人女性が「必要ない」「通訳」として同行していたそうです。彼女がオノ・ヨーコだと知ったのは数年後のことだったと述懐するキーン。

司馬遼太郎とのエピソードで、対談の話が印象的です。「司馬は、私の知識が活かせそうな事柄にむけて思いやり深く話を進め、何度となく発言の機会を作ってくれ」、その心づかいに敬服したようです。

今は亡き五人の大作家との交友関係?を、これだけ豊かに語れるドナルド・キーンのような日本人がほとんど現存しないことに寂しさを感じました。
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